耐 寒 耐 水 服     P-2J機長

 

 海上自衛隊の航空機は当たり前の話だが、海の上を飛ぶ。盆でも正月でも日本の周囲の海域を毎日まいにち監視飛行をする。雪が降っても台風が来ても、全国の基地がお互いにカバーし合って穴が空かないようにする。

 厚木に雪が降ってかなり積もりそうだという予報が出れば、翌日の監視飛行にスケジュール・アップされているチームは前日に雪の無い鹿屋や硫黄島に進出して、そこから上がる。

 監視飛行というのは平時における海上航空部隊の最も大きな任務であるからそこまで真剣にやっている。

 

 海の上ばかりを飛んでいて不安はないか?とか、恐くないか?とか聞かれることがあるが、我々は逆に陸上を飛んでいて天気が悪くなると海の上に出ようと考える。海の上は高い山は無いし、送電線も無い。増して複雑多岐な人間関係も無い。天気が悪くても雲が海面まで垂れ込めていることはめったに無い。昼間の最低安全高度200フィートまで下がれば、たいてい海面は見える。どんな状態で飛んでいても海面さえ見えれば、自分の姿勢を正しく判断し航空機を安全に飛ばせることができる。もちろん機体に故障が無く、パイロットの心身に異常が無いという前提がついての話ではある。

 

 それでは、航空機が故障し飛べなくなったらどうするか・・・? 不時着水する。マニュアルには手順が細かく決められている。昼間に海上に着水するときは風の方向とうねりの方向を考慮して着水方位を決める。

 夜、真っ暗でうねりが見えないときには、航空機の重量に応じた着水速度を保って、1分間100フィートの割合でゆるやかに降下する。そして着水したならばそれぞれの乗組員がどこで何を持ってどの窓から脱出し、どの救命ボートに乗るか、まで決まっており、乗組員は毎回のフライトを始める前のミーティングでお互いの役割を確認する。

 

 パイロットの卵として入隊した航空学生が最初に搭乗員らしい訓練を受けるのが不時着水後の水中脱出訓練である。7メートルほどの深さのあるプールの縁に脱出訓練装置があり、45度の傾斜のレールの上を単発機の操縦席に模した鉄のトロッコに訓練員を乗せ、ベルトでがんじがらめに縛り付けた上で、10メートル程の高さにウィンチで引き上げ、笛の合図で自由落下(滑走)させて勢い良くプールに突っ込む、大きな水しぶきが上がり1メートル程沈むと、操縦席が前向きに180度ひっくり返る。水中で完全に上下が逆になる。

 

訓練生は、逆さになったまま息を止めてじっと周囲の泡が消えるのを待ち、ベルトを外して操縦席から離れるように一度深く潜る。そして機体から45度の方向に潜水して20メートル程泳いで浮上し救命胴衣を膨らませる。

 あわてると救命胴衣や飛行服の裾が操縦席に引っ掛かって脱出できなくなる。訓練に際しては安全を考慮して、ボンベを背負った潜水員が2名潜っているが、簡単に助けると訓練にならないから、失敗した学生はしこたま水を飲んで、体で覚えてもらうまで繰り返し飛び込ませる。

 

 文字に書くと大変な訓練のようだが、小月の訓練装置は水中で前方にひっくり返るだけのワン・パターンだから、冷静な判断力を持った学生であれば、事前の注意事項を理解しておくだけで7割以上は1発で合格する。

 鹿屋に新しく作られたヘリコプター型の水中脱出訓練装置は、着水後横転したり傾いたまま沈んだりと7通りほどのモードがあり、6人くらいが一度に乗り込むことができる。ヘリの搭乗員はヒードと呼ばれる小型の空気ボンベを常に持って飛んでいるから、それを注意深く使って5分程度は水中で行動できるように訓練する。

 

 さて、訓練なら脱出に成功すれば終了であるが、実際の不時着水では脱出したあとが本番である。特に冬のシーズンは救命胴衣を膨らませて海上に浮いた直後から寒さとの戦いが始まる。防水機能のない通常の衣服では水温5℃の海では15分程度で人事不省になる。数時間も生きられる可能性はほとんど無い。何年か前に氷の張ったポトマック川に墜落したボーイング727のテレビ映像のとおりである。

 

 そこで搭乗員を守るために、冬季用のさまざまな飛行服が開発されてきた。海上自衛隊でも私が知っているだけで5種類の耐寒耐水服が装備されて来た。設計上、一貫してとられてきた思想は生身の体を水に触れさせない(防水)ことと、体温を奪われない(防寒)ことである。

 理想としては分かるが、初期のものは大変だった。水を通さない材料はゴムでも化学繊維でもたくさんあるが、昔は水を通さない事イコール空気も通さない事であったから、中が力一杯蒸れた。昭和40年代の耐寒耐水服はズボンに長靴が接着され、上着とセパレートされていた。手首と生首の部分はゴムの幕で体に密着する構造で、個人の首の大きさに合わせて鋏で切って調節した。首をきつくしすぎると息が出来ないし、ゆるくすると海に脱出したときに水が入る。が、搭乗員は誰でも自分だけは遭難しないと思っているから、作業に支障がないようにゆるく切った。上着の裾とズボンの股上は、両方とも30センチぐらい余分な長さがあってそれを重ねてぐるぐる巻きにして紐で縛り、水の浸入を防いだ。このタイプは通気性がすこぶる悪く、遭難する前から汗でびしょ濡れになった。

 

 次に防水チャックが発明され、夏用の飛行服と同じ「つなぎ」になった。首から下腹部までがチャック式になり繊維の通気性は相変わらず悪いものの、暑ければチャックを開けて空気を入れられるようになった。もちろん着水する前には、息の出来る限界まで首のチャックを締め上げなければならない。

 靴の部分は従来どおり合成皮革の長靴がズボンに接着されていたから、普段履いている靴を脱いで飛行服を着なければならない。個人ごとに体の大きさと靴の大きさが違うから、靴と飛行服は別々に選び部隊の救命ショップで接着するようになっていた。首の後ろには大きなフードがあり、寒風から頭を守れるような配慮もなされていた。冬は搭乗員は皆この飛行服を着て飛んだ。背中が痒くなると手が届かず非常に困った。私は今でもスペースシャトルの打ち上げのテレビ映像を見ると、宇宙飛行士はあのヘルメットをかぶった状態で鼻が痒くなったらどうするんだろう?と同情を禁じ得ない。

 

 冬季は天候が急変する。朝、八戸から離陸する時には比較的天候が良くても、日本海で監視飛行を続けているうちに基地が猛吹雪となって着陸できないことは良くある。そのときは鹿屋などの天候の良い基地に着陸する。めったに無いことだが、司令部の親心で「このクリューはいつも頑張っているから今日は鹿屋で部外泊させてやれ。」ということになる。

 

 着陸後の後片付けを終えて、基地のバスで旅館まで送ってもらう。もちろん飛行服のままである。旅館の玄関に着いてからが大変だ。なにせ、靴と上着とが接着され、しかも上下ツナギであるから、磨かれた廊下を歩いて畳の部屋に上がるには、玄関で服を脱がなければならない。契約旅館とは言え一般のお客さんも泊まっている玄関で、12人の男が下着姿になるのである。おかみさんは慣れているから、オレンジ色の飛行服の一団が到着すると、さっさと玄関に浴衣(ゆかた)を持ってきてくれるが、タイミングが悪くて新米の仲居さんしか居ないような時には困る。今ではマスメディアの発達のお陰で、日本中どこに行っても言葉は通じるが、ふた昔ほど前までは東北弁の搭乗員と鹿児島弁の仲居さんが意思を疎通させることは常識の外であった。その混乱は読者の想像にまかせる。

 

 ひと騒ぎの後、玄関には12個の宇宙人の抜け殻が残り、中身は浴衣に丹前をはおり下駄をつっかけて街に繰り出す。搭乗員たるもの、いつどこに降りるか分からないから、飛行服のポケットには十分とは言えないまでも幾らかの小銭は入れている。しかし、どこの基地に降りても必ず同期はいるから困った時はお互い様で面倒は見てくれる。かくして鹿屋の夜の街はいっときの賑わいを取り戻す。

 

 休養を十分に取った搭乗員たちは、再び玄関に12枚の浴衣の抜け殻を残し帰路につく。搭乗員という生き物は何故か飛び立つ前に必ず排泄行動をする。基地のトイレは昔はほとんど和式であった。それぞれ適当な時間に個室にこもり、用を足す。もちろん耐寒耐水型の飛行服の上半身を脱いで・・・。この時にフードが邪魔になる。注意深い人はそれなりに注意するから問題は起こらないのであるが、年に何名かのあわて者は自分の分身と別れ難く、フードの中にさっきまで体の一部であった湯気の立つ○○コを残し、着る時に気付いて大慌てする。誰も見ていないのを確かめて水道の水でジャブジャブ洗う。

 

 今では、長時間飛行する大型固定翼機では「即時着用型耐寒耐水服」となり、着水前に普段の飛行服の上から着れば良い事になって、冬季は機内に搭載したままだから即時着用できる(わけはないが・・・)ように訓練する時以外は左程の苦痛はなくなった。

また機内で席を離れることの出来ない小型機や、ヘリコプター搭乗員の常時着用型の耐寒耐水服も、靴は分離し、フードも無くなったので旅館の玄関で下着姿になる必要もない。さらに繊維が改善されて中が蒸れないようになれば言うことはない。装備品メーカーのFさん、頼みますぞ!