鮪(マグロ)      哨戒機機長

 

 昭和43年6月26日に、敗戦以来米国の信託統治領となっていた小笠原諸島がわが国に復帰した。小笠原諸島は戦前は、伊豆諸島と同じく東京都の行政区画に入っていたから、復帰後も当然のように東京都の管理下に入った。行政の中心である父島には、戦後移り住んだグァム系やサイパン系の人々が数百人暮らしていたが、日本に復帰するに及んで、そのまま我が国に帰化した人と、南方の島々に帰って米国民の籍を維持した人々に分かれそこに都の行政機関が入ったものだから、やや複雑な様相を呈していた。

 

 父島から南南西に150マイル離れた硫黄島は、戦前は民間の人々が住み、サトウキビの栽培などを行っていたが、太平洋戦争が激化するに及んで民間人は内地に疎開させられ、陸海軍が強固な要塞を築いた。軍は戦闘機や双発の陸上攻撃機が発着できる滑走路を3カ所に建設し、本土防衛の最前線基地とした所に昭和20年に米海兵隊が上陸し、日米両軍の血みどろの攻防戦の結果、合計2万人以上の死傷者を出して米軍の手に陥ちた。米軍はただちに、サイパンから日本本土を爆撃するB-29の不時着基地として3,000mの滑走路を突貫工事で完成させた。

 

それ以来米軍が管理していた硫黄島飛行場は、復帰と同時に海上自衛隊が管理することとなり、厚木の第4航空群の隷下に約60名規模の硫黄島航空基地分遣隊が編成された。復帰直後の硫黄島には民間人は一人もおらず(現在も同じであるが・・)約60名の海上自衛隊員と30名程度の米国沿岸警備隊の隊員(ロラン局の保守要員)が住んでいた。

 3,000mの滑走路は当時としては海上自衛隊で一番長いものであったが自衛隊での再工事の後は、2,650mに縮小されて現在に至っている。海上自衛隊はその滑走路の2/3程を使ってP2V-7を運用していたが、米軍は沿岸警備隊への補給のためにボーイング707などの大型旅客機を降ろしていた。

 

 当時は硫黄島の位置づけは現在のような完備された訓練基地ではなかったが、基地の整備や補給また父島への人員輸送の中継基地として(硫黄島から父島までは大村航空隊のUF-2型飛行艇が担当。)下総からP2V-7がひんぱんに運航されていた。基地では米軍の残したカマボコ隊舎の大部屋に隊員が住み、外来宿舎も同様のカマボコ隊舎であった。

 島は位置的には北緯24度にあり熱帯の最北端であるから、気候は高温多湿で蒸し暑く、隊舎には米軍の残したクーラーがあったが、大半は故障して使えず、たまたま正常でも発電能力の制約からいつでも使えるという環境ではなかった。したがってP2Vの搭乗員は夕方から夜が更けて涼しくなるまで隊舎の横の芝生の上で車座になってトランプをするか、下総で買い込んできたアルコールを呑む位しかすることが無かった。酔っ払って芝生上に寝転がると頭上に子供の頭ほどの椰子の実がたわわに実っており、落ちてきたらどうしようかと本気で心配した。

 

 さて昭和40年代の後半に硫黄島に台風が来襲した際、一隻の漁船がその台風を避けて西海岸の島影に避泊していたが、強い西風で走錨して砂浜に座礁した。さらに高潮が加わって砂浜のかなり奥まで押し流された。幸い漁労長以下乗組員には怪我はなく、硫黄島の衛生隊に収容された。

 警察職員も行政職員もいないので、分遣隊司令が罹災証明書を書き、乗組員は次の定期便で内地に帰した。

 台風の過ぎ去った西海岸の砂浜には、漁船だけがかろうじて水平を保ち、場違いの姿をさらしていた。口数の少ない漁労長は「お世話になりました。船の方は保険で処理しますので残ったものは全部自衛隊さんにあげます。」と言い残して島を離れた。

 

 あげますと言われても、と思いながら司令が調査に行くと何と船内の冷凍庫に数十トンの本マグロが零下数十度で冷凍されたままカチンカチンになって残っていた。すでに漁船の冷凍機は止まっている。これは大変だと言うことで、隊員を総動員して基地の冷凍庫に運んだが、隊の冷凍庫の容積が少なく一匹百キロ近いマグロが何匹も入る訳はない。かといって漁労長が保険で全損処理している筈の漁獲物をおおっぴらに内地に送る訳にも行かない。

 

 思わぬ漁夫の利をせしめたのが我々搭乗員である。硫黄島に行くP2Vの爆弾倉には補給物品を運ぶために板を張ってある。補給品を下ろしたあと西海岸でのマグロ釣りとなった。凍ったままの本マグロを毛布でくるみ、爆弾倉に積んだ。高い高度を飛べば爆弾倉は零下の温度を保つから、下総に着陸しても凍ったままである。大部分は下総の隊員食堂に運んだが、余禄の分は地上に降ろしたあと適当に自然解凍するのを待って甲板士官ののこぎりで解体して皆で少しずつ分けた。この作戦はその後も二度、三度と繰り返されたが、さすがに3週間も経つと、さしもの漁船の冷凍庫も温度が上がり、自然に溶けたマグロが痛んできてこの漁夫の利作戦も幕を閉じた。

 

 漁船で患者が発生すると我が海上自衛隊の虎の子救難機であるUS-1Aが洋上に着水して、患者を収容する。その際、患者の付き添いとして冷凍した小マグロを2〜3本ボートに放り込まれることはたまにあるが、何十トンものマグロを貰ったのは海上自衛隊発足以来、最初にして最後のことであろう。

 

 それでも半分以上を腐らせてしまったのは今でもはなはだ残念である。