航空四方山話


S−62について


片眼のジャック

 昭和50年7月、厚木航空基地隊 厚木救難飛行隊勤務となった。ヘリコプターの小さな基地しか知らなかった者が、固定翼のしかも米軍と同居の基地に勤務と言うことで、当初はいろんなことに面食らったものでした。

 厚木救難飛行隊には、救難機としてS−62が配備されていた。S−62ヘリコプターは、レシプロエンジンのS−55ヘリコプターのエンジンをジェットエンジンに換え、機体のコックピット部を変更し、ASEも装備した試作機である。設計開始が早かったHSS−2はS−61と言い、試作機のほうはS−62である。(ちなみにHSS−1(−1N)はS−58と言うコマーシャルネームを持っている。)T58−8Bと言うターボシャフトエンジンを1基、機体の中心ではなくちょっと右にオフセットして積んであったので、片目のジャックとも呼ばれていた。T58エンジンは本来1,250馬力であったが、それを750馬力に落として使っていたのでエンジンはすこぶる調子がよかった。これはトランスミッションの制限であった。ちなみに、HSS−2とバートルは、このエンジンを2基フルパワーで使っていた。

救難訓練
 救難機として、洋上の捜索救難訓練、山岳の捜索訓練、その他は計器飛行訓練と離着陸訓練が主であった。洋上の捜索救難訓練は、相模湾でタイヤチューブを黄色く塗ったものにシーアンカーをつけて投下し、10マイルくらい離れてから引き返して捜索していた。発見したら、これをホイストに四つ目碇をつけて、タイヤの中に四つ目碇が入るように航空士に誘導されて、吊り上げて終了となる。チューブの内径60CMくらいの中に四つ目碇を入れるのは本当に難しく、結構時間をとられたものである。ある時は、海面風20ノット以上で一面が白波のときにチューブを投下したら、航空士が着水を確認できずそのまま捜索したが、とうとう見つけることが出来なかった。

 山岳の捜索訓練は、厚木の西の大山、4000Ftで実施していた。平塚のほうから南風の上昇気流を利用して、60ノットでトコトコと上り、最後は40ノット対地高度100Ftくらいになりながら頂上を越え、そこからくるっと一周する毎に高度を200Ft単位くらい下げて捜索訓練をしていた。

 計器飛行訓練は、ADFとGCAの訓練が主であった。離着陸訓練は、よくさせてもらい、オートローテーションはフルオートで着陸できるくらいまで訓練させてもらった。

 S−62は、機体の下部が艇体構造になっていて、常時着水ができるようになっていた。霞ヶ浦で着水訓練をやり、着水して水上タクシーをしたりローターを止めたり、タイヤチューブにシーアンカーをつけたものを目標に救助訓練をやっていた。タイヤチューブを目標に風下から進入し、右のスポンソンに絡ませないようにしてスポンソンを過ぎた頃に右ラダーを踏むと、負圧の関係でタイヤチューブがキャビンのドアー付近に吸い寄ってきていた。ローターを止めるときは、エンジンをアイドル状態で、2Pがローターブレーキを操作していた。ローターが止まりかけの状態で、風に対して右45度くらいでローターを完全にとめても、左45度くらいまで機体が回っていた。


洋上救難

 S−62での思い出といえば、昭和51年2月2日、伊豆大島沖でのS2Fの捜索救難である。2Pとして救難待機についていたら、同じ格納庫の14空、S2Fの遭難を聞き緊急発進した。

 北西の風が強く、最大の90ノットを出してもGSが60ノットしか出なかった。大島の西に着いたときは、館山からのHSS−2がすでにオンステーションしていて、MK−4の上でホバリングしていた。その地点をデイタムとして、拡大方形捜索に入り、第2レグに旋回したときに遭難者を発見した。

 航空士(機上救護員)1名が海に入り遭難者をホイストのスリングに入れて、2名で機内への収容しようとしていたが、なかなか収容できないので後ろを見るとにっちもさっちも行かない状況に陥っていた。機長に断り、直ぐにキャビンに移り航空士を指揮して、遭難者を機内に収容した。これが一期後輩の宇野2尉であった。直ちに自衛隊中央病院に搬送したが、残念ながら搬送先で死亡が確認された。

 その他に、新島からの帰投中、相模湾に雲が立ち塞がっていてどうしょうかと思っていたら、S2Fの先輩の声が聞こえた。すぐさまコンタクトしてポジションを言ったところ、「雲の切れ目はない、幅は5マイルくらいだからそのまま突っ切れる、他の航空機は居ない」との返答があり、雲に入っていくと「あと3マイル、あと2マイル、まもなく出る」と、誘導してもらったことです。レーダーを持っているって、こんなに楽なのだとつくづく感じた次第でした。

現場へ誘導のP2V−7機長

 あの時は、遭難通信が入ったとき、私は厚木のトラフィックで21期の某パイロットのタッチ・アンド・ゴーの教官をしておりまして、通信傍受と同時に訓練を取り止めて大島西方の現場に向かいました。

 現場には既に、僚機のS2Fが3機と近くに居た、吉原1尉(後の1空群司令)機長のP2V-7がおりましたので、事故現場と厚木基地の中間まで戻って、救飛のS-62の誘導に当たりました。救飛の機長は、15期の望月さんではなかったかと記憶しております。

 コパイだった筆者が書いているように非常に風の強い日で、340度40ノット位吹いており、海面は真っ白でした。
 事故現場は大島西方で、厚木からは南西方向なのにS-62のヘディングは浜松の方向を向いており、現場位置を間違えているのでは・・・? と心配するぐらい編流修正角を取っていました。

 あの事故は、昭和51年2月2日ですから、来年2月で30年になるのですが、現場の情景は、鮮明な記憶として残っています。

V107−Aへ